ソノヒノ

その日の思考と行動

「作りたい」とは、一石を投じて、波を起こしたい感情のこと

「作りたい」とは何か。

一石を投じて、波を起こしたい感情のことではないか。

 

人の心という水面。

そこに、自身が投げた1石で、波を起こす。

その行為により、生きている実感、あるいは他者とのつながりを感じたいという本能。

 

幼子は自身と世界が分断されているとある日知ることになる。

そして、自身が世界に対して「影響」できる遊びを好む。

分断された悲しみを覆い隠すかのような、感情的な喜び。

 

その影響の範囲を広げたい。

より大きな世界と結びつきたい。

そんな風に、厳かにも思ってしまっている。

 

投げる石は大きいほうが良い。

より良い作品とは、そういう影響力の可能性のことかもしれない。

 

あるいは、投げ方が重要かもしれない。

時代性、世界の情勢、人の心の状態。

そういったものを鑑みて、適切な角度と速度で投げる。

そのことで、小さな石でも大きな波を起こすことが出来る。

 

一瞬の大きな波。

長く残る小さな波。

いずれにせよ、止む運命だ。

どちらを選ぶかは、自由だ。

手が止まるのではない、計算プログラムがバグっただけだ

作業をしようとして、手が止まる。

これは「手が止まる」というよりも「計算プログラムがバグった」という方が正しい。

 

作業A,B,Cの順番、結果などを考えているうちに、脳のリソースが不足する。

結果、プログラムが止まり、計算できなくなる。無念。

 

効率と効果を追い求めても、虚無

効率と効果を追い求める虚無について。

 

生きて死ぬ。

輪廻転生などの可能性を無視すれば、そのシンプルな100年の流れがそこにあるだけだ。

経験するものを増やしたいという気持ち。

それをあざ笑う「どうせ意味がない」というシニカルに見る俯瞰者の自分。

 

効果と効率を追い求め、経験するものを増やし、自分自身を成長という名の効率マシーンに変えた末に、行き着くところは死である。

では、その取組に意味がないのか、価値がないのか?

 

結論としては「ある」と定義したい人には「ある」というだけだ。

そして、自分としては、どちらでもいいよなあとも思う。

 

いや、言い過ぎだ。

「どちらでもいい」と言いたいだけだ。

本能のところでは「自分の人生にはかけがえのない意味や価値があって誇れるなにかであってほしい」という触るのも嫌になるほどの自我まみれの発想がある。

それに蓋をして、隅へ追いやりたいのは、一方での「理性」を信じたいからだ。

 

理性は何と言っているか?

こちらも残酷で、「何者でもない自分」ということになる。

 

我々の祖先の何者かは火をつける方法を発見した。

エジソンは電球を発明した。

ノイマンはコンピュータの原型を発明した。

ビル・ゲイツWindows95を作った。

スティーブ・ジョブズiPhoneを作った。

 

一方で自分は人類の進化には寄与しなかった。

経済活動において、2000年代のある会社のあるシステムにちょっと貢献しただけだ。

たったそれだけ。

 

少なくともマクロ的に見た時の価値はほぼゼロに等しい。

 

…と書いていると、脳内の奥の方から、

それでも人間には輝ける生があり、周囲の人の感情に影響を与え、オリジナルでかけがえのない意味があるのだ!

的な意見が出てくるし、受け入れたい衝動に駆られる。

 

この現実と脳内の茶番を持って、虚無と呼ぶにいささかの躊躇もない。

 

ではそれに絶望しているか、もう人生が嫌か?

そんなことはない。

川が流れる如く、滝が流れる如く、重力加速度に支配されているが如く、ただ当たり前の生の姿がある。

 

むき出しの生。

がらんどうの生。

 

虚無と分かっていても、詰め込むべきなにかがないと分かっていても、それでも人は動かざるを得ない。

それもまた、生だ。

情報を整理する悪癖と軽い強迫神経症

情報を整理しつくさないと気がすまない。

そんな悪癖がある。

 

昔からノートに、あるいはテキストファイルに文章を書き連ねていた。

自分の思考であり、行動であり、感情であり、計画だ。

 

定量が貯まると、何故かそれらを整理して、削ぎ落としたくなる。

網羅した上で、俯瞰した上で、結胸の所コレが大事でしょ。

と言って、残りのものを切り捨てたくなる。

 

これは、軽い強迫神経症なのかもしれない。

思えば昔から、大事なことに取り掛かる前に、些末なものをすべて済ませたいという気持ちがあった。

それはテスト前の掃除とかいう話ではなく、より頻繁に起こっていた。

 

脳のすべての神経を、プライオリティが最高のものに使いたい。

そんな狂気を、私の動物的な脳は全力で肯定し続けた。

そうしないと、働いてやらないよ、とでも言うように。

 

それは一種の現実逃避であり、行動しない言い訳ともいえる。

逆に言うと、そこまでして、お膳立てするまでして、行動したいのかという自問自答なのかもしれない。

 

現実が進まない。

澱んだ日常が変わらない。

そんな時に、いつも自分にのしかかるのは、大いなる理想と、重大な計画だった。

ヘビのように、両足にまとわりつき、動くことが段々と怖くなる。

 

自分の悪癖を直視した上で、理性的に振る舞いたい。

つまるところ、準備をしないとダメな癖を自分の目標に生かすのだ。

やってみる価値はあるはずだ。

あるいは影響力の行使

対話、会話、伝達に発信。

あるいは影響力の行使。

 

情報は抽象化され、ミームとして暗闇を這いつくばり、人の脳に寄生。

具象化し、拡散。

 

影響。

それは目的ではないはずなのに、ただの手段のはずなのに、つい力を持つ。

目的化してしまう。

生きた証を残したいという、大それた幻想の支配とも言える。

 

影響されず、影響せず、ニュートラルな立ち位置で生きる。

情報を断食し、思考の発酵を待つ。

そんな時間も必要だ。

やる気に頼らない人生設計

やる気に頼らない人生設計をしたい。

 

朝のちょっとした寝坊

昨夜の食べ過ぎ

友人の他愛無い一言に傷つき

ちょっとした低気圧に影響される

そんな風にやる気はいくらでも浮き沈みする。

 

やる気が出なければ、働けない。

それは本能の甘い嘘だ。

 

やる気という感情を、勘定の外に置く。

自分が立てた計画をただ淡々とやる。

一切のしがらみもなく、迷いもなく、さながらマシンのように。

 

遠くに輝くオアシスの幻影を頼りに、

砂漠の砂の不甲斐なさを足元に感じながら、

一歩一歩進んでいくだけだ。

 

甘えず、サボらず、コツコツと進む。

やる気という不安定なエンジンは、切り捨てる。

田舎暮らしの速度は悪くない

田舎暮らしの速度は悪くない。

 

私が田舎出身だからこそ思うが、田舎の「人生の天井」は低い。

多くの人が、人生ゲームのゴール後のようなボーナスステージにいる気がする。

人生ゲームの前半で、ゴールを目指して走っていた頃の焦りはない。

速度は、ゆったりとしている。

あるいは、止まっている。

 

それ故に見えるものもある。

それ故に羨望する速さもある。

 

ファッションとしての田舎暮らしには抵抗があるが、

現代社会を客観視するための、エスケープは悪くはないと思う。

 

車だから見える風景と、徒歩だから見える風景の差だ。

視点は個人による。

ただしその視点は環境の影響を受けるだろう。

 

所詮は、社会的あるいは環境的な動物にすぎない人間だ。

くだらないながらも強い影響を持つ本能を乗りこなすため、環境を変えるのは、やはり悪くない。